邪馬台国 永遠の平行線 古賀 英毅 - 西日本新聞
考古学ファンの心を揺さぶる邪馬台国の所在地論争。先日、テレビで九州説と畿内説を対決させる番組が放送されていた。九州...|西日本新聞は、九州のニュースを中心に ...
(出典:西日本新聞)


邪馬台国の所在地については21世紀に入っても議論が続いている。 中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。なお、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」(新字体:邪馬
63キロバイト (11,668 語) - 2019年7月27日 (土) 02:57



(出典 takenori.info)



1

 考古学ファンの心を揺さぶる邪馬台国の所在地論争。先日、テレビで九州説と畿内説を対決させる番組が放送されていた。九州説の有力な手掛かりは硯(すずり)。畿内説の方は赤色顔料の原料、水銀だ。

 ただ、硯は、福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんが今春、大阪府泉南市にある弥生時代の遺跡出土品に含まれているのを確認している。一方、水銀の鉱床も畿内限定ではなく、「丹生(にゅう)」などゆかりの地名は九州にもある。お互い説得力はいまひとつだった。

 折も折、九州説をとるミスター吉野ケ里こと高島忠平さんと、纒向(まきむく)学研究センター(奈良県桜井市)所長の寺沢薫さんによる対論が福岡県飯塚市で開かれた。寺沢さんは桜井市の纒向遺跡を邪馬台国=ヤマト国とみる研究者だ。

 結論から言えば「議論は永遠の平行線」という印象だ。

 重要な鍵は多様な土器が出土している纒向遺跡。遺跡の時期と重なる「庄内式」と呼ばれる土器が登場した年代を、寺沢さんは3世紀初めごろとする。中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」にある女王・卑弥呼の共立時期と同じで、「卑弥呼の都」との見方が強まる。

 高島さんは3世紀半ばとみる。卑弥呼が没した時期であり、纒向遺跡は無関係という解釈を導く。2人とも庄内式土器が用いられた時期と纒向に「都市」があった時期は一致すると考えているが、その土器が示す実年代のとらえ方に50年の差があり、対論でもなかなか縮まらなかった。

 土器の年代は研究の積み重ねを基に設定されている。実年代に当てはめる場合は一定程度の推測が伴い、各研究者がそれぞれの尺度を持つ。放射性炭素14を使った科学的な年代分析法もあるが、概して従来の年代設定より古い数値が出ており、精度を疑問視し否定的な研究者もいる。

 ちなみに庄内式土器も、炭素14測定では卑弥呼が生まれる前の2世紀-との数値も出ている。もっともこの分析法は「100年ほどの誤差を含み、10年、20年単位の判定には不向き」との指摘も聞く。

 論争が袋小路に入るそもそもの原因は倭人伝の記述だ。文字通りに進めば邪馬台国は日本の南方海上になってしまう。数々の論者が自分流に読み換え、各地に所在地を求めた。これも永遠の平行線。ドイツ近代政治史が専門の九州大教授、熊野直樹さんは「攻めてくる恐れのある他国に、自国の地理情報を正確に伝えるはずがない」と、国際関係論をベースに邪馬台国側の意図を読み解いてみせる。

 交わることなき論争。故に歴史ロマンが生き続けるのかもしれない。(文化部次長 古賀英毅)

西日本新聞 2019/7/27 10:40
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/530555/





8

>>1
そう。だからこそ「真の邪馬台国は徳島」で決着なんです。


36

>>8
その通りです。
だけど利権が相当あるので
既得権益者に勝つのは困難


17

>>1
そもそも中国の正史に記述された王権であるかどうか
そこに日本史の本質は無いと思うがね?

自らの歴史の根拠やアイデンティティを
他の文明に求めるのは
朱儒の価値観としか言いようが無い


18

>>1

最初は九州にあったのが、支配地域がひろまったことにより、
畿内へ遷都した、という説をいくつかの書籍で読んだことがあるよ


51

>>18
漢代の倭国盟主にして歴史的権威、九州やまと(邪馬台)を、
恐らく4世紀初-中旬に畿内が滅ぼし、その権威ある名を継いだ。

実際には、漢衰退期の2世紀終わり(-3C頭?)の倭国大乱で
邪馬台は負け、列島の覇権を失い、魏に朝貢させられた。
そして、華北が完全に崩壊した4世紀に滅ぼされる。


64

>>18
仮に遷都があったとしたら遷都があったのは邪馬台国より前の時代だよ
九州の遺跡調査から九州の王朝の衰退時期がわかる


68

>>64
九州が衰退してようが、それは魏志倭人伝を書いた人に関係ないでしょ


73

>>68
中華思想だから関係あるよ。


92

>>64
遷都じゃなくて、権力の移行。
漢への朝貢を握った九州やまと(邪馬台)が列島の覇権国。
(邪馬台隷下の奴国(みなと=博多)に朝貢させた。)
漢の衰退期に起きた倭国大乱で邪馬台は負け、
覇権を禁止された(男王禁止・女王「共立」)
魏には新覇権国(畿内?)から朝貢させられてた。


60


今の発音(畿内方言由来?)で言うと、
ヒメコ(太陽の娘)だな。
周辺の王が○○ヒコ(太陽の息子)だからね。


74

>>1
「ここは邪馬台国です」と書かれた看板が見つからない限りは、
考古学的証拠は何一つ無い。

邪馬台国は文献の中にしか存在しない国なのだから、
邪馬台国議論に文献学的アプローチ以外は認めるべきではない。

それがわからん考古学者がグダグダ言ってるだけ。


75

>>74
まさしく


80

>>74
考古学的証拠がそろってるからほとんどの学者が畿内説なんだが


86

>>80
それが間違ったアプローチだっつーの
デトロイトの話をしてるのに、首都はワシントンDCだ経済の中心はNYだって言ってるようなもの
魏志倭人伝はデトロイトが邪馬台国だって書いてるのに、衰退してるから違うとか言ってるのが畿内


88

>>80 そろってるから
???????????????????????????
ほんと、ひどい印象操作(畿内厨一派の)がおこなわれてるよ

【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」-「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」-魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
-邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」-「倭人は鉄の鏃を用いる」
-弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。

「魏志倭人伝」-「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
-弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。

三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。


95

>>88
九州説は場所の特定もできてないからね。問題外なんだよ。
畿内には古代の大王の墓がそろってるし


100

>>88
また九州説の捏造がはじまった。

邪馬台国伝ではなく倭人伝。
弥生時代なんて何百年あるんだよw

そもそも邪馬台国は三世紀後半の話でいくら鉄が出ようが全く何の価値もない。
それに倭の鉄なんて鉄鏃しか記述がない、石や骨と同じ扱いだぞw


96

>>80
>これに対して、この数年間に調査のおこなわれてきた大和古墳群での中山大塚、下池山、黒塚などの前期古墳の埋葬は
いずれも木棺を壮大な竪穴式石室で囲みこんでいたし、若い日の僕が発掘に加わった櫛山古墳は石棺を竪穴式石室の
おさめていた。
今回発掘されたホケノ山古墳では、木棺の外側に木槨と石室との2重の外部施設を備えていて、
倭人伝が記している倭人の葬法には合っていない。森浩一「関東学をひらく」より 2001 朝日新聞

「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、 棺あって槨なし。」 と、明記しているのだ。
木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。<


13

邪馬台国の起源は韓国


15

>>13
よく理解されてますね


21

万世一系を唱えたかった舎人親王らが、魏志倭人伝とかう面倒な歴史書と整合性を持たせるため
宮崎(日向)の山奥から神武天皇が突如東征して西日本を席捲、大和に根付いたストーリーを仕立てあげた。
こうしておけば過去の九州の豪族の偉業も自分らの先祖の功績に組み込めるから。


34

>>21
第225回活動記録 神武天皇陵の謎 菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)
はその著書のなかで、洞村(被差別部落)の区長宅で多くの老人たちから聞いた
洞村内部の話を次のように伝えている。
洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は
街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上で ...
yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm - 13k - キャッシュ - 関連ページ

↑うちらの先祖は九州から神武にくっついてここに来たという伝承をつたえる


26

日本各地に存在した勢力の何処が
三國志魏書に記述されたかどうかは
日本史の本質にも大和王権の正統性にも関係ない

無意味な論争


44

>>26
仮に邪馬台国が奈良だったら
邪馬台国は神社など日本文化の発祥の地の可能性が高いよ


55

>>44
日本文化の本質が
他の文明の正史に記述されたかどうかに
何の関係があるのか?


67

>>55
証明になるが


81

>>67
日本という国の形の本質にとっては
何の証明にもならんな

単なる辺境勢力との接触であっても
斯くの如く記述されるだけであるし


91

>>81
なるよ。奈良には古代の大王の墓がそろってるんだし
御神体の三輪山もある。現代の天皇も参拝する、そこの大王(卑弥呼)に関する記述だよ


94

>>91
朱儒


97

>>94
なにが言いたいの?説明できないの?


99

>>97
朱儒に人の言葉が通じてないだけだろw


35

箸墓が調査できるようになればなぁ


39

邪魔大王国・・・って書こうとしたら先に書かれてた。

親魏倭王の金印でも出てこない限り平行線じゃね?


46

>>39
「漢の委の奴の国王」
   わ な
↑3段細切れ読み  根本的にまちがい!!  イトまたはイドと読みます

金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと

現代中国人は漢委奴国王をどう読むか?
仏教大学の黄當時教授は、2014年の10月に開催された
「第8回金印シンポジウム志賀島」において、

「金印の韻文は『漢の委奴の国王』と2段に読むしかない」
『3段読みは』致命的ともいえる欠陥を抱えている。固執は不毛である」
と述べ、また委奴国という漢字を見せられて、「ヤマト」「ワノナ」
と読む中国人はいないと断定している。

↑畿内厨!!! 失笑


53

>>46
漢帰義羌長も「漢に帰義する羌の長」で3段細切れ読みだよん


65

>>53
漢の匈奴の悪適尸逐王の銅印

漢匈奴悪適尸逐王銅印駝鈕、大谷大学現蔵 これは、「漢の匈奴の悪適尸逐の王」と三段に見える。
だが、実際は、「悪適尸逐王」という匈奴の王号であって、三段国名ではない。また、かりにこれを
「三段国名」と見なしても、この印は銅印である。銅印は中小国家の王や夷蛮の小君長などに与えられる。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
(それらも、この例以外は二段国名である)一方、金印はそれより格上、夷蛮の地域の中心的王者(と中国側が見なした者)
に与えられる。だから、金印は特に、AのBのCなどという


70

>>65
銅印は3段読みOKで
金印は3段読みNGという謎のルールはどこから出てきたの?


79

>>70
おまえ、いつもいるな

「漢の委の奴の国王」
   な わ
↑3段細切れ読み  根本的にまちがい!!  イトまたはイドと読みます

金印は当然、政庁におかれた

皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない

印文のルールとは、二段国名が取られていたこと

三段国名の例があったら教えてもらいたい

ないだろ??  畿内厨…

おまえ、福永光司のイト国という説得力ある論考読んでないだろ?


82

>>79
だから「漢に帰義する羌の長」で3段だよ


41

邪馬台国は2つあった! という新理論を提唱する


52

>>41
ていうか、別の国な

『隠された物部王国{日本ヒノモト} 民俗学者・谷川健一

かつて列島に併存していた「倭国」と「日本ヒノモト」
「日本ヒノモト」はいつ、だれによって併合されたのか

物部も九州から、遠賀川流域から来たんだよ

東遷は2回あった 谷川健一がいってるように


43

邪馬台国って文字自体が、大和国の中国での当て字だろ。

当時、魏の国が三国志の終盤で中国を制覇する時代だったから、
海を隔てた日本列島の原始人なんて、バカにしたに違いなく、なにが大和だw
邪馬台国って呼べば充分。
と、そういう感覚だろうよ。
当時は南蛮だとか、辺境を酷い文字で書いて読んでた。

なのに、邪馬台国を日本人が読んだ国の名だと考えるから、わからんのよ。
自国に邪なんて文字を付けるかよ。


47

>>43
そんな感覚のわけない
命と権威がかかってるから他国の国力の調査は最重要で真剣にやることだよ


61

>>47
だから、三国志で勝ち抜くほど国力のある魏が大和国に来てみたら、なんの力もない国々だから、
ああ、邪馬台国って書いて呼べば充分だと判断したんだろうよ。


45

邪馬台=やまと これはもう完全に定説


71

>>45
そう。九州に在った「やまと」
ただ、音は少し違ったかもな。
今の日本語は、畿内方言由来の発音だから。


77

>>45
やまとという地名は結構どこそこにあるからなぁ


89

>>77
日本の最古の地理資料でも倭国も大倭も奈良にある。


56

山があるからやまとだろ


66

>>56
そう。
みなと と やまと